2009年9月4日金曜日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 2   Do androids dream of electric sheep? ii


     茶祖堂の内部。ここからでも左は利休と言う事が解る。
承前
>>千利休が堂内に鎮座していた。
 未来心の丘を降りて、本堂の裏を通り救世観音大尊像の立つ所を過ぎると少し高い所にお堂が在るので登ってみる。この救世観音はかの法隆寺の救世観音を元にしてるのだが誰もこれと法隆寺を繋げる事は不可能であろう。最早、知識や想像力を逞しくしても到底解る物ではない世界に来てると言えるかも知れない。http://www.kousanji.or.jp/03kosanji/k_13kyusei.html
 さて、小高い所にあるお堂であるが裏から回ったから登り難かったし建物も掴みつらかったが、正面に行くと中華風の雰囲気の複雑な屋根である。が、中は簡素であり意外な人物の像があった。利休居士が鎮座してるのが外からでも解った。その隣は?藪内の流祖剣仲の様である。この堂は茶筅を供養する為に建てられたらしい。ここ迄来て、何がしかの茶との関係がある事が解って来た。一寺がここ迄の堂を建立する事はなみなみ成らぬ事では無い。寺と茶と言うのは無関係では無いし、茶室を持つ寺と言うのは多く、それらを貸し出す寺も又多い。だが、茶道具の供養の為、一堂を建立するのは茶の湯の上流の、詰まり、家元であるとか職分家と言うか家元では無いが、本家筋と深い関わりのある家柄であるとか、新しい家柄であってもこの本筋と太い繋がりの在る家柄との交流を示しているとも言えるだろう。そしてこの太いパイプは恐らく薮内の本丸であろう。先ほどの見た様な茶碗などがここに在る訳の一端が解った様な気がした。

>>お母様と呼ばれる耕三寺耕三師の母。
 次に行ったのは潮聲閣と言うここの中でも最古参の建物である。日本家屋とゼツェッション風の折衷様式の近代建築である。いや、どこにもそういう風に書かれては無いが恐らくはその考え方で間違ってはいないと思う。先ずは、裏口から入るがこちらは和風建築である。ここは土間に成っていてここで靴を脱ぎ、中に上がらせて貰う。暫く行くと係の年配の女性が案内に付いて来てくれた。一通りの説明を受けるのだが、ここでも大変に気になるのはこの屋敷は「初代住職のお母様」と言う言葉遣いである。「お母様」と言う言葉は丁寧で上品な言葉なのかも知れないが、来客である我々に対しての言葉としてはマスコミの最近遣う「天皇様」程の違和感がある。
 我々は彼らに対しては「お客様」なのではないのであろうか?
 いや、まぁ博物/美術館としてより宗教施設として参拝してると考えて「お客様」では無いとしよう。それにしても、こちらの「お母様」と言う表現は一段高い所から響いてる様に感じる。そして年配の女性は覚えた通りの説明を続けてくれる。要約すると、この建物は耕三師が成功の後、母親孝行(彼の父は子どもの時に逝去)の為に、当時果樹園であり特に何もない、この田舎に建てた家で材料や調度等は全て当時の名品、銘木を用いてると言う事である。詳しくは解らないが、恐らく今和風建築でこの様にふんだんに銘木を用いて建てる事は出来ないであろう。もう、その様な銘木が採れるのかと言う疑問が先ずは有る。あってもそれを使いこなせる大工や工人が居るのか? いや居るのは、居る筈であるがそう言う事をして、この様な建物を今建てるよりも、超高級マンションを建てる方が安く、簡単に出来ると思う。そう言う建物で有ると言う風に書けば簡単に解ってもらえるか。女性の説明にイチイチ驚きながら部屋を案内された。

>>玄関の意味は?
 前に書いた様に折衷様式、和と様の融合を試みた建物である。風呂は洋式であった。洋館の方は洋式の調度の原則である。建物が建った時代は西洋の様式建築は衰退していて、フリースタイルからモダニズムに入っている。だが、この頃の有産階級でモダニズムの大胆さを取り入れる層は、多く無かったのか、ここもモタニズム建築と言う程の斬新さはない。室内にはデコやヌーボーを彷彿とさせる様な調度や飾りはあるが全体として欧州の様式の流れにあると言う感じである。なので恐らくは斬新なモダニズムと言うよりは、流麗なる
ゼツェッションと言う感じなのだろうか?そう言えば耕三寺そのものもゼツェッション、と言う風に言っても良いかも知れない。
 客間は椅子とテーブルが居並ぶ様式であるが椅子やテーブルは中華風である。ここで案内の女性に「この屋敷には昔どの位の従業員が居たのですか?これだけの設備を維持しようとしたら相当な数の人間が必要やったと思うんですが。例えば、そこに暖炉がありますが、これの扱い方もちゃんと習得した人間が要るでしょうし、お風呂はガスではなくへっついさん(釜炊きの事)やし、他にも庭の手入れとか日常的な事だけでもある程度の技術を習得した人でないと出来ないと思います。ここを毎日の生活空間とするならば、相当数の使用人と言うか従業員が居たと思うのですが・・・」と聴いた。恐らくこの様な質問を受けるのは初めてだと思うが、この年配の女性には全く解りかねる事の様で「さぁ・・・」と言う応えしか出て来なかった。

この裏口から中に入る。丁度、団体客が出て来た所で
中には誰もいず、ジックリと見て回れた。


>>かつては身分社会であった日本と言う国。
 それから玄関に通された。こちらは玄関と言うより、貴人口と言う方が良いのでは無いかと思えた。詰まりこの玄関は正客を迎える玄関である。古い屋敷と言うのは、往々にしてこう言うモノがある。
 玄関を入った辺が書院造りになって居て、違い棚には華頭窓までもある。そして、玄関の前には堂々とした門が閉ざされている。これは正客も正客、大臣や公侯伯子男・爵などの所謂名士と呼ばれる人たちを迎える玄関である。勿論、ここも銘木に拘り抜いて拵えられている。ここでもこの門と玄関に付いて聴いた。「あの様な門を作ると言う事は、何方か位の高い方を、例えば大臣であるとか、貴族であるとかそう言う人たちですけど、を迎える為の門だと思いますが、一体ここには誰が訪ねて来られたのですか? 恐らく、昔はあの門の向こうかどこかに車寄せ成り何成り合ったと思うのです。あれほどの門を用意するのは誰が訪れたのですか?」この質問には老女は全然答えられなかった。因にこの屋敷が建てられた頃には耕三寺耕三師は、俗名を名乗り、住まいは大阪にあった。屋敷の主人は飽くまでもお母様である。

     入ってすぐに浴室がある。

 身分の事をちょっと書く。
 前回の言葉、分相応と言う事にも関わってくる。一応は昔は身分制度と言うのがあり、好むと好まざるとに関わらず、そう言う制度の中で生活をしていた。明治維新になり建前としての身分制度は解消されたがこれは何の事はなく、新しい身分制度の確立である。要は今迄は身分としては低かった者達が新興勢力として自分たちも新しい特権階級としたのである。その解り易い形として先ほど上げた天皇を頂点とした特権階級制度、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となる。この制度は近代に出来た。侯爵等と言う概念は古代中国のものでこの呼び名は日本では正式には使われなかったようであるが、近代期になって一気に復活した。制度は欧州の帝国主義を参考にしている。新興勢力と言ったが、厳密にはこれは正しく無く実際には多くの公家、大名家など何百年に渡って権力側に居た人間達も含むのであるが、徳川幕藩体制の中では、メインストリームではなかった人たちと言う事である。幕藩体制化では天皇の方が徳川将軍よりも遥かに位が上であるが、実質の政治、軍事、経済その他全ては徳川の方が上であり、京都朝廷は飽くまでも「どマイナーな存在」であった。
 さて、近代はそう言う訳で四民平等と言う風に言っていながらも、厳然とした分相応の社会が構築されていた。また、この階級には納税額や国に対する貢献等(一番手っ取り早いのは戦争で功績を立てるだろうか?これ等は資本は要らず、ただ現場での根性のみかも知れない)により、この勢力に加わる事も出来たのである。ただし金があれば誰でも身分が変えられた、と言う訳ではない。また、敢えて平民身分に留まれた方々も多いと思われる。では現代日本はどうなのか?と言われれば制度としては無い。けど矢張り見えない形で身分や氏、階級と言うものは日本人の中に活きてる。これは話が長く成りそうなので今回は書かないが。

       浴室を出た廊下。奥は応接間、左は中庭。

 話が随分長く成っているが、一応建前としては身分制度は近代と近代以前とでは確実に違うものに成ったと言えるのである。それは、幕藩時代でも、少なからず商業や産業などで金銭的に成功する者と言うのは居た。そしてその者の出自が農民や商人なら、その成功や藩なり村なりのコミュニティへの貢献に寄り、庄屋なり郷士なりの身分と成り、名字帯刀と言う事もあった。だが、この成功者に対して支配階級の領主なり、藩主なり、代官なりが、この立身出世した者の私宅を訪れる事は殆ど無かったで有ろう。成功者が逆に支配者を訪問をする事を許される事はあっても、恐らくはその逆は正式にはないと思う。あるとすれば、領主の部下が上意として名代を勤める事になる。しかし、それにしても然るべき手段が講じられる様になる。来るのは部下であるが、この部下が運んで来るのは上意と言う「上の意志」である。「上」はこの様なむさとした処にワザワザと来てくれないので、変わりに部下が名代として代役で来る。代役と言え、その本質は「上」即ち、殿様である。その為にはそれなりの馳走、詰まりもてなしが必要になる。立派な玄関や殿様の使いが通るに相応しい門が必要になる。昔はこの使いが来ると言うだけの理由で門を作らなければ成らなかったのである。非常に面倒くさく煩わしい習慣かもしれないがそう言う物であったのだ。この煩わしさのある種の究極が芝居の忠臣蔵に於ける浅野内匠頭の役、勅使の饗応役と言う立場である。これを見事にこなせば立身出世だった訳だが、煩わしさに耐えかねた結果が忠臣蔵と言う、後世に伝わる悲劇となる。

      この門の奥が玄関と成る。

 しかし、近代にはある種の身分の人たちが色々な所に顔を出す時代でもあった。かつては天皇は京都から動かなかった。けど東京に来た、そして二度と京都に帰らなかった。東京に来たのみならず、その後明治帝は全国を訪れた。それは日本が幕藩体制から天皇と言う国家元首を中心とする新しい制度に生まれ変わる為に、その新しい権威を全国に普く知らしめる為に最も手っ取り早い手段であったからである。それ迄の日本中の人々には、将軍は完全に「想定外」の人物で、天皇と言うのはその存在すらも曖昧であった。将軍どころかその国の殿様でさえ、気軽に城下に出て来る事も無ければ庶民の家を訪れる事等、間違ってもない。そう言う状況の中での常識が染み付いた一般大衆に「伝説のカリスマが俺の街に来る!」と言うイベントが必要であった。その為に(華美を好まなかった明治帝の意に反して)多くの門が立てられた筈である。
 天皇の例は解り易くする為に書いたのであって、何もここに天皇が来たとか言う話は無いと思う。あれば、この寺の性質上それを堂々と掲げてる様な気がするし、そう言う様な表示も話も出て来なかったと思う。時代は近代に成り、位の高い人々も気軽に身分が下のものを訪れる様になった、と言う事を書き記しておきたかったので長く成ったがこう言う話を書いた。
 気軽に来る様に、その種の身分制度は確かに崩れた。だが、まだまだこの当時の人々は古い教育や教養を受け継いでいるので、急には変えられない。この時代な人は応接間や玄関、門に貴人が来た時用に然るべき格のあるモノを作るのであった。今なら自分の為に贅沢な部屋を作るだろうが、つい数十年前迄は応接間と言う客人様の部屋にこそ贅を尽くしたのは、その名残りなのである。人間は案外保守的なもので、いくら風潮が新しく成っても、直ぐにはその壁を乗り越える事は出来ないのである。今でも、ペットボトルのお茶を和服を着た女性が「ラッパ飲み」する場面のCM、ポスターは無いと思う。和服、伝統、格式と言う得体の知れないもの前に制作側が躊躇しているのである。その様な絵づらは想像が出来ないし、何よりもクライアントがOKしないであろう。たかがペットボトルの茶と言えども「伝統的に優雅にお茶を嗜む」と言う見えない情報がここに織り込まれているのである・・・。
 詰まり、この玄関の格と言うのは今書いた様な事が意識として厳然と存在した設えと言う事である。それは、見た目はただ単に拘った豪華な造りのと言う事であるが、ここ迄してるのは然るべき客人を待つと言う事である。今、総理大臣なり一国の大使や、外国の王侯が来たなら我々が入場した入り口ではなく、今閉まっている門が開かれるであろう。そう言う門である。

         応接間。

長く成ったので、更に続く。

2 件のコメント:

  1. この寺自体が面白いが、わざわざ見に行った記者の見方が面白い。特に「入り口考」は秀逸。次号が今から楽しみです。

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  2. kaneyoshiさま
    コメント有難うございます。
    なかなか旨く書けないですが、漫談放談と
    だらだら書いて行きたいです。

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