2009年11月27日金曜日

チャーリーとチョコレート工場のチョコレート



世界で一番うんまいチョコレートがあり、それは連合王国(所謂イギリスの事。英国と言う中国語は大概間違って使われてる。United Kingdomの訳としてはこちらの方が向いてる。)にあるウイリー・ウォンカ氏の経営するチョコレート工場で造られてるらしい。

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ウォンカ・チョコレート
 これはロアールド・ダール原作でおなじみ、現代の古典とも言える童話『チャーリーとチョコレート工場の秘密』の中の話しである。原作はもう40年くらい前になるのかな? 数年前に原作の大ファンで映画化を待望していたらしいジョニー・デップ主演で上映されました。僕も見ましたが原作の方が良いかな。けど、まぁ映画は別モンなんであれはあれでエーとも思います。
 そのチョコーレート(を元にしたのが)毎年期間限定で発売されていて、今年もその時期が已にやってきています。早速先日買いました。実は毎年密かに楽しみにしています。



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原作本の和訳書の方も新しい版が出てます
 僕は日本語版ではなく連合王国の出版社パフィンから出てる新書、えーっと家畜語で言う「ペーパーバック」とか言う(家畜語:むやみやたらに不必要なまでに外来語、特に米語を使う人たちの言葉。参考『家畜人ヤプー/沼正三原作」)やつですかね。何しか英語版で読んだので日本版がどうなっていたのか良く知りませんが、兎に角新訳のようです。この本をちらっと書店で手に取ったのですが、訳者の方の心意気が良いですね。と言うか、本来の翻訳はこう有るべきと思うのですが。どう言う事かと言うと、ある程度の言語や原義は残して置きながら可能な限り日本語化すると言う事です。
 僕は昔から本を読むのが好きなので海外の翻訳ものや洋画、外国映画などを好んだのですが、こう言う作品の中で「インチ」とか「ポンド」とかメートルやキロの変わりに使ったり、不明瞭な単語を訳さずに言語のまま使っていたりと言う事に大変疑問をもっていました。最近は洋画や海外の音楽作品などは邦題を付けずにそのまま難解な外国語の演題が付いて封切られたり、発売、おっと「リリース」いやいや「イン・ストア・ナウ」ですか? 最近は家畜語でそう言うんですか、ああそうですかw その「ナウ」ですは何しか。
 けど、映画なんかも昔はイチイチ邦題を付けてたもんです。例えばビートルズの映画 'A Hard Days Night' は「ビートルズがやってくる、ヤァ!ヤァ!ヤァ!」何て風に現代とは全然違う物ですが、これは60年代の日本の一般大衆には充分に訴えかける物が有ったと思います。因にこの邦題を考えたのは先年無く成った映画評論家の水野晴郎です。いいセンスやと思います。こういう風な工夫をしなく成った日本人。安易に外国語を意味も解らずそのまま使う、家畜化が進んでます。
閑話休題。

>>新旧日本語訳の「チョコレート工場の秘密」
 その新しい方の訳なんですが、僕は新旧共に日本語版は読んでいないのでどっちが良いとか言えないんですが、外国語と言う文化を日本文化を背負ってる日本人にも馴染める様に言葉の遊びの部分に力を入れてる様子です。こう言う翻訳家は最近は少ない。翻訳は矢張り大変に知的で文化的な作業であるので、こう言う事は益々盛んになって貰いたい物です。簡単に外国の慣習や名称をそのままカタカナ化しても何の意味もありません。
 新しい方は、登場人物の固有名詞なども日本風に変えています。ここらは賛否両論有る様ですが、実は本当はこうしないと行けない。言葉と言うのは命題的にこう言う問題を孕んでいますよ、と言うのを考えさせてくれる良い機会でもあると思います。文学の楽しみと言うのはこう言う事でもあると思います。実用書とは違うので情報のみが必要と言う訳ではなくその作品から色々な物や事を考えたり、追体験したりする事も文学の醍醐味ではと思うのです。
 例えば、先ほどのa hard day's night と言う文ですが、これは中学生でもわかる単語ですが文法的な間違いとそれに付いてのおかしさなどに案外気がつかないと思うのです。まして、60年代は今程、日本人の家畜化が進んでいない頃にはこのユーモアのセンスと言うかビートルズらしい言語感覚はほぼ確実に日本人には伝わらなかったと思います。それなら、大方に解りやすい「ビートルズがやってくる〜」の方が遥かに良いと思えます。ただ単に原題をそのままカタカナ化したり、ヒドい時にはそのままローマ字とか全く恥知らずで卑怯な行為と思います。新しい「チョコレート工場の秘密」を読んでいないのですが、訳者の日本語に対してのそう言う部分は評価したいです。



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さてさて、本題のチョコレートは
結構大きく、甘い物が好きな僕でも一気に一枚は食べれません。真ん中にはキャラメルが挟まってて、周りにはナッツとか色々と入ってます。今期は何枚買うかな〜。って案外とチョコの話しが少なくも、全巻の終わりw

2009年10月25日日曜日

弱肉強食、天王寺動物園。


今迄の内容とはガラッと変わります。けど、まぁ日本文化をつぶさに考察してみたい、ってホンマかいな。 天王寺界隈は大阪市内の中心部上町台地周辺にあり歴史、文化に富んでいてある意味で最も大阪らしい。天王寺動物園は、国内でも3番目に古い動物園で都市の中にありながらも、その 環境整備には独自の魅力を発揮していて中々に面白い所です。

>>弱肉強食、天王寺動物園。
 天王寺の地名の由来は、近くにある四天王寺からですが、これがまた日本の寺の中でも最古参でこう言う所に歴史と伝統の深さ(京都、奈良なんかよりも大阪の方が歴史的に古い。その辺はもう一つのブログでも散々書いてますので善ければ読んでみてちょ)が解るものの、古色蒼然とした雰囲気が無いのも大阪っぽい。もっと、大阪っぽいのはこの辺は所謂浮浪者や日雇い労働者(通称あんこ)が沢山居ると言うのもあります。あ、ホームレスなんて変な外来語は使いたく無いです。浮浪者と言う言葉に差別意識は無いです。そう言う言葉をホームレスと言う言葉に置き換えたからと言うて何にも成らないし、却って日本語(日本文化)や考える力を骨抜きにするだけなので浮浪者を使わせてもらいます。たかが言葉と言えど、人が使ってるからと言う理由で、何でもかんでもそれを真似したくありません。ですが、『あんこ』は問題発言かもしれませんので、この言葉は使う人が気を付けて下さい。気になるようなら調べて下さい。どんな感じで気をつけるかと言うと、タマにブログ等を観てると「拙いブログですが」と謙遜されてる方々がいてはりますが、そのブログのコメントで、「いつもこちらの拙いブログを楽しみにしています」と書くのはちょっと・・・。てな感じでしょうか?
 さて、浮浪者と日雇い労働者はギリギリ違うのですが、日雇いの人らが仕事にあぶれると浮浪者の即戦力に成ると言う、資本主義社会のある意味の矛盾の部分を生きてる人たちでしょうか。で、そう言う資本主義の下の方の流れの人が日本で一番多い地域もこの辺なんですよ。大阪は色んな部分で東京に数とか量で負けてますが、こう言う部分はどうやら日本一の様です。けど、実はこれも可成り深い歴史と伝統に関わってる事なのです、実は。その辺の事はドンドン脱線してしまいますので今回は省きますが、能の弱法師(よろぼし)とか、説教節の俊徳丸とか、浄瑠璃の摂州合邦ヶ辻とかはその辺の事にも触れている芸能です。って、全部一緒の話やんと突っ込めた貴方は日本文化や芸能に明るい。
 もとい、これらの話しは差別と貧困と救済と再生がテーマに成ってます。で、何でその様な話しがこの天王寺界隈であるのかと言うと、ここには中世には色んな賎民階級や共同体からおんだされた人たちが救いを求めてやって来てたんですよね。それが、今でも使われる言葉の「西方浄土」とか言うやつです。それがここ四天王寺から往時は覗けると信じられていたのです。また、ここはそれよりももっともっと古い、聖徳太子の時代に(因にこの寺は聖徳太子の発願で建てられた、日本でも最古の寺です。)ここに移築した時に施療院、今で言う病院や療養所を建てたんですね。当時は疫病が流行って(太子の父親用明天皇も疫病で崩御される)いたので伝染病対策は国家的に急務でもあった訳です。そう言う事で庶民や行き倒れてる者を救済した言う(僕は個人的にはこの辺は疑問あり)伝説が、もう千年以上前から定着してる所で、昔からある意味行き場の無い人たちの行き場と成ってる訳ですね。ここから、熊野に向かう旧街道熊野海道を小栗海道とも呼び、この小栗は小栗判官と言う中世の説教節(浄瑠璃なんかのルーツに成る芸能)から取られてますが、これも差別と死と再生の物語です。そう言うものがこの辺には溢れている訳ですね。


>>浪速のサナンシティ、天王寺公園。

 僕の好きな漫画家に根本敬
http://www011.upp.so-net.ne.jp/TOKUSYUMANGA/が居てるんですけど、この人は昔からこの界隈に取材に来てるんですよね。厳密にはここより更にディープサウスに成りますけど。まぁ、広域で新世界界隈と言う所でしょうか。で、この人の数ある旨い表現に『肉食系』『草食系』と言うのがありまして、これが非情に非常に、この辺りの雰囲気を伝える言葉でもあります。最近流行の「草食系男子」とは微妙にニュアンスが違いますね。何と言うても根本敬画伯ですからね。簡単に言うと草食系と言うのはこの辺に居てる日雇い労働者のおっちゃんらで、「今生で出来る事は来世でも出来る」みたいな感じのライフスタイルですかね。まぁ、積極的と言う生き方ではないと言うか、ある意味がつがつしてないと言うか。当初TVでこの言葉が使われる際には「ダウナー系」と言う言葉が使われる筈だった様ですが、それはマズいと言う事になり急遽差し替えられた様ですが。そんで、肉食系と言うのは、この労働者を毎日ピックアップして建築現場に連れて行く仕事、詰まり手配師、人夫だしのおっちゃんらの事ですね。こちらは差し替え前には「アッパー系」と言う言葉に成っていた様です。この界隈にはこう言う「草食系」な方々が大変多いと言う情報を充分頭に入れて置いて下さい。
 さてさて、いつも通りに前置きが長く成りましたが、今日は前々から大変気になっていたこの天王寺動物園の近くのある壁画の写真を見てもらいましょう。
 この動物園は天王寺公園の一部で、公園内には天王寺動物園、大阪市立美術館などがあります。僕が若い頃にはこの公園には無料で入れたのですが、今は公園に入るだけで入園料を取ります。これは何の事はない浮浪者対策です。彼らには入ってくるなと言う事でしょう。まぁ、サンシティみたいなもんですかね。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3_%28%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%29
お金にシビアな大阪人はこの公園にワザワザお金を払って入る事は考えられません。入るときは、併設の美術館、動物園に入る時にある種の「通過料」として止むなしに払ってると考えて良いでしょう。つまり、この壁画が有るのは動物園の壁にあるんですね。何とも色んな意味で現実的ですな。以下は写真を参照下さい。

まず、ライオンが水牛を襲っていますね。あ、着物が夏物ですが、この写真はちょっと前に撮ってものでついブログに上げるの忘れていたのですけど、もう一度取り直す程の事も無いので、その夏に撮った物を載せてます。

次にハイエナが来て、屍肉をあさっていますね。あ、そんな事より危うし俺!ライオンが水牛を飛び越えてこっちに来そうです。


奇麗さっぱりと平らげられました。どうやら時期も大分と経ってるようです。合掌。

一番最初の画像を拡大しました。


まぁ、こう言う学術的で文化的な事業です。




artist united against apartheid
sun city

2009年10月3日土曜日

笑福亭福笑、笑福亭たま 初めての天満天神繁昌亭 




今日は落語の話です。

いや、厳密には落語を上演する空間、寄席の話し中心ですね。

落語と言うのも、前々から書いてますが比較的新しい言葉の様でんな。と、今日は大阪弁全開で行きまっせ、何せ上方噺の事を書く訳やさかいね。ええ、落語。詰まり、語りに落ちが着くと言う事でんな。これも落語と言う漢文調以前は、落とし噺、又はただ単に噺/話しと言うてた様です。そやから落語家の事も今でも、噺家と言いまっしゃろ?









>>上方落語。
 えー、寄席と言うのが大阪には、最近迄おへん(無かった)でした。そないに言うと、大勢の大阪人も「んな事はないやろ、吉本とか松竹とか昔からあるやないか!」と言います。けど、あれは劇場だす。松竹系でもよしもとでも、芯を打つのは芝居(喜劇)で、落語もいろもん(色物)扱いでした。いろもん言うのは本来は落語・講談以外の芸、万歳(漫才とは又違う)や奇術、音頭とか踊り、声色とかの事を指しました。昔の寄席では、落語・講談は墨書でしたがそれ以外は墨では書かなんだ(なかった)らしいです、そんで色もんと言う事です。
 僕もあんまり、劇場で落語を観た事が無いからあんまり詳しい事も書けまへんけども、特にちょっと前迄落語は一部の通と言うか、漫才(さっきの万歳とは違う)みたいお気軽な娯楽と言うのでも無く、かと言うて三大古典芸能ほどの伝統とか格式とか(若しくは排他性!?)の世界でもなく、何か微妙な立ち位置でした。人気はあるけど、そないにしょっちゅう、落語自体をTVとかでやってる訳でもない。けど何となく、親しみのあるその口調と顔ぶれ。オモロい人らやけどもその本芸に触れる機会が少ないと言うのが、極々一般的な大阪人、関西人の感覚やと思います。二大メジャー(前記有名芸能プロダクション兼劇場経営者)の劇場に行く人は関西ではそこそこいてるかも知れませんが、そこで本格的に本ネタをやってる噺家も案外少なかったと思います。


>>地域寄席。
 ほな、どこでどうやって落語を観れてん?と言う質問があると思います。今、東京に400人、上方に200人程の噺家がいてるらしいですけど、東京には毎日やってる寄席が確か三つくらいあったと思います。それに、演芸場が幾つかと今は二大メジャーの一つが東京に幾つか劇場を持ってますが、こちらで落語があるのかどうか知りません。まぁ、何しか東京には定席、詰まり毎日落語を打つ小屋が幾つかと、それ以外に色もんと一緒にやる所が幾つかある訳ですね。大阪にはそう言うのは無かったんですわ。無いにも関わらず、200人も噺家がいてるとはどう言う事や!?とも思いますわな。これには、今も沢山ありますが、大阪には地域寄席と言う、手作りの寄席、まぁ落語会ですけど、そう言うのが沢山ありまして、毎日何処かで落語会が開かれてる。これも、ほんまに規模の小さい所から、一地方の大きな公民館やホールを借りてやる大きいやつ迄色々とおます。それ以外に、独演会や一門会や勉強会などもあり、何処かでほぼ毎日、落語が聞ける様には成っていました。僕らみたいに戦後の定席を知らない上方演芸ファンはそう言う所でとかで落語観て、聴いてきたわけでんな。





>>繁昌亭、お初。
 上方落語好きに取っても、落語定席があればと言うのは見果てぬ夢でした。いや、前述の様にどっかで、ほぼ必ずと言うてええ位、落語はやってる訳ですが、それでもやっぱり昔の写真なんかで見る高座の模様はええ感じやし、東京にあって大阪に無いと言うんわ、大阪人の悔しがるポイントも高い(ほんまか?)し、寄席の雰囲気を味わいたいと言う風に思ってはる人も多かったと思います。
 そんな中、満を持して開館した繁昌亭。しかも丁度その頃は落語ブームと重なっていて予想以上の反響で持って迎えられた様でんな。そんな人気で席が摂り難いと言うのもあり、何とはなしに今迄行けませなんだが、つい先日行く機会がおました。しかも当日のトリは好きな噺家の一人、笑福亭福笑!わたいこの人のファンだんねん。それに一遍生で観たいなと思てた福笑の弟子、笑福亭たまも出る。


>>ええ小屋なんかな?
 当日は満員で補助席でした。詰まりパイプ椅子です。あの、折り畳みのやつです。ところがこれが可成り見にくい。丁度、目線が来る所に最後列の柵があって、これで舞台が遮断されます。ここに座ってると、二階がまだ空いてるのでと、そちらを勧められました。前列の方は詰まっていたので、一番後ろに座るも、椅子は狭い。何か上の方から噺家を覗く感じやし、これはまだ下の方がマシやなと思い、開口一番の噺家が済んだら大急ぎで次の笑福亭たまを観るべく下に向かいました。
 建物の外観はま、良しとしてぶっちゃけ、小屋の立ち位置としては何か微妙なもんを感じましたな。もうちょっと大きくてもええと思いましたね。まして、若い人間に成れば成る程、立ても横も面積も体積も大きく成る訳ですから、もうちょっと席に余裕があっても良いかな。それに舞台にはマイクが立ってる(これも何か不格好な気がします。昭和30年代でも無いのであそこにマイクを立てる必要あんのかな?今のマイクて高性能やからあそこにマイクを立てる必要も無いよな気がするんですが・・・)ので、あんまし箱としての大きさを気にする必要は無いのではないかなとも思います。座席自体はあれの1.5倍くらいあっても善いと思いまんなぁ。特に最近の若手は大きなホールとか結構人の入ってる所での喋り(TVの公開録音とか)そう言うのに基本的に成れてると思うんで、あれよりもう少し大きいくらいでは、演者が特別やり難いと言う様な事も無いと思うんですけど、これはまぁ、あそこに立って(座って)みんとなんともですけど。数年後に改装を期待します。その節にはもっとバリアフリーと、駐車場は無くても仕方ないけど、最低限度駐輪場は作って欲しいですね。庶民が気楽に自転車で行ける寄席と言うんはええもんやと思うんですけど・・・。





笑福亭福笑は好きな噺家の一人です。
写真は今年の彦八祭りで撮らせて頂きました。



 >>みんな使うから使う?『師匠』と言う表記。
 以前にも書きましたが、最近は落語ブームのお陰で色んなとこで落語の話題を目にします。色んな人に落語の魅力を知って貰えるん大変よろしい事やとも思うてます。けど、これも色んなとこで言うたり書いたりしてますが、噺家を指して「師匠」と言うのはどうも変な感じがします。東京の方は知りませんが、大阪ではあんまり普通の人々が芸の玄人衆である噺家を「師匠」とは呼ばなんだと思いますし、昔から周りで芸人を指して「師匠」と言う風に呼んでいたのを知りません。洒落は置いといといてですよ。子どもが敢えてそう言う使い方とすると言うのはあると思います。いや、僕もそう言うガキやでした。説明すんのも野暮やけど、普通は一般人が師匠と言うのは可笑しい、それを敢えて関係のない人間が言うから、それも入門どころか中学生や高校生が言うからオモロいと言う構図。そんなん飽くまでも「教室・部室の笑い」みたいなもんです。けど、ええ大人の言うたり、書いたりする洒落ではおまへんな。ところが最近のブログ等を読むとやたらめたら噺家を「師匠」と敬称の様に用いてますがとても変な感じがします。そんな別に入門してる訳でも、落語を教わってる訳でも、そして多分、知り合いでも関係者でもないんですから気色悪い気がします。最近は新聞や雑誌等でも「師匠」と言う風に使っていて可成り違和感があります。もっと驚いたのは、講談師を旭堂●○師匠と書いてるのも見ました。講談師は「先生」で「師匠」とは呼ばんと思います。でも多分そんな違いは普通は知らないと思うのです。だったら、そんな知らない符牒であるとか専門用語とか業界用語をワザワザ使う必要ないと思います。何遍も書いてますが、寿司屋で「ガリ」「アガリ」「ムラサキ」「オアイソ」と恰も通ぶって符牒を用いるのと一緒で普通の人が普通に使う言葉ではないと思います。飽くまで仲間内に通じる洒落とかなら話しは別ですが・・・。
 さて、当日ですが初めて生で見た笑福亭たまはオモロかったです。独演会とかに行ってみたい気がしました。そして、意外に善かったのが色もんの宮川青丸・とん子です。むかし、浪花座とかで見た時には何とも言えませなんだが、久々に見て大変オモロかったです。そして林家笑丸も良かったです。落語では無く珍芸と言う感じでしたが(いやいや、一応古典落語『ほうじの茶』なんですが、それ以外にも紙切りとかの寄席芸とかウクレレ漫談風に成っていたりと古典では括れない!)さらに色々とこなさはる器用な方です。そしてトリは福笑でしたが枕が長かったなと言う感じでした。で話しも古典やのうて(ここんとこあんまり古典見てない)新作で下げ迄いかずでちょっと物足りなかったかな。あ、オモロいしファンなんで何でも良いんですけどねw 
またいきたいですね、繁昌亭。

2009年9月12日土曜日

大槻能楽堂自主公演能 ナイトシアター


今日は能の話。  
日本の古典芸能で、多分能が一番好き。
舞楽、雅楽その他神楽や神事、仏事芸能の様に千年以上前からの古い芸能から能狂言、浄瑠璃、歌舞伎、落語、講談、浪曲と大凡古典芸能は殆どどれも好きやけども、矢張り能が一番かも知れない。音楽的にも面白い部分があるし、ドラマツルギーとしても観るべき物がある。日本人の精神性を考える上でも面白いし、民俗学的にもオモロい。 能は、能楽と呼ばれる様になったのは近代からでそれ迄は猿(申)楽の能などと呼ばれていた。こう言う呼び方に就いては、第一回目にも書いた。http://mandanhoudan.blogspot.com/2009/08/21.html
こう言う呼び方は、当時の中華風をよしとする傾向が生んだ物であろうか。



>>大槻能楽堂と言う凄い所。
 大槻能楽堂は凄い。何が凄いかと言うと能と言う芸能を現代社会に適した形でエンタメとしても又伝統芸能としても、アートとしても興行として成功させてるからである。これは実に凄い事である。
 例えば、他の古典芸能、例の三大古典芸能では文楽、歌舞伎は常設の専門の小屋、今で言う劇場が在り、そこである一定の間上演される。つまり、初日から千秋楽まで。歌舞伎や文楽なら一月位、昼夜に公演される。落語等の寄席芸は大体、一月を三回に区切って出演者が入れ替わる様に成ってる。何もこれは古典劇だけではなく、商業演劇とかミュージカル、大衆演劇も、もっと言うと映画もこう言う形態。
 しかし、能はそう言う形を取らず「一期一会」一回こっきりである。
 また、大体の場合インディーズと言うか能楽師が自分で企画、主催してるのである。ここが他の芸能と決定的に違う所である。古典にしろ、それ以外にしろ大体が芸能事務所なり何成りに所属していて、ブッキングや何かはそちらのマネジメントになる。
 そもそも、能の場合は興行と言う風には言わないかもしれない。決まり事や、独特の舞台形式などがあるからか何日間も公演すると言う形は(殆ど)ない。なので、一公演一回限りの一期一会と成る。落語が解る人には噺家の独演会の様なモノと言えば良いか。観る方もそう心得て見に行ってる訳である。今日の公演を逃したから来週とか、次回と言うのはまずない。今日の組み合わせでの演能は二度と無いかも知れない。そう言う感じである。
 さて、大槻能楽堂の何が凄いかと言うと、端的に言ってここは自主公演能をもう、二十年程やっている。これは大変凄い事である。
 上に上げた様な理由で、能の上演と言うのはプロフェッショナルに寄る上演にも関わらず、一般的な興行形態ではなく全ての仕切りを能楽師が薦めて行く大前提だからである。だからインディーズと書いた訳である。そしてこの様な公演形態を始めたのもどうやらここが初めらしい。つまり、ここは大槻能楽堂と言う小屋が企画、主催をしているのであるが、これは能の世界ではエポックメーキングな事である。日本全国に能舞台は数々在るが、それは能楽師や能の各流派に所属すると言う原則である。例えばここ大槻能楽堂は元来は観世流の能楽師の家、大槻家のものである(現在は財団法人になってる)ので観世流の舞台しか勤められない事が常識である。だが、ここの企画する自主公演能では観世以外の流派の舞台も在る訳である。そう言う様な魅力ある内容の舞台を月代わりで毎回公演してるのである。更に、夏の蝋燭能や学者や作家、著名人をゲストに招いての公演等年間に二十回以上は自主公演を行っている。こう言う事をもう、二十年も行ってるのは全く凄いとしか言い様が無い。大阪に住んでいて良かったと思える事の一つである。
http://www.noh-kyogen.com/


>>おそらく初心者でも楽しめる「大槻能楽堂ナイトシアター」
 大槻能楽堂ナイトシアターと言う名目でレイトショーを行っている訳である。こう言う所がなにげに凄いのである。伝統の上にあぐらをかいていない。飽くまで都会に住んでる一般層のお客に来て貰い易い様に上演すると言う姿勢である。自主公演能は狂言一番と能一番で大体時間にして二時間弱である。
 19:30分開演なので、大阪市内に勤めているのならば時間が厳しいと言う事もないであろう。ミナミからでもキタからでも10分くらいでここ迄来れるし。また、自主公演の際には受付で筋書きを書いた紙を貰えるし、開演前に専属のアナウンサー女史により曲目の解説やその日の見所等を教えてもらえるので能に関しての全くの知識が無い人でもある程度迄は理解出来る筈である。また、詞章や意味等が分からなくても何と言ってもライブで芸能を観賞してる訳であるから面白いと思える部分や感じれる部分があると思う。



>>大変素晴しい自主公演能ではあるが
 あえて苦言を。開演に先立ちアナウンサーの方が曲目の解説や見所、更には事前に出演者にインタビューしてその日の心境や演者の観て欲しい所や抱負などを紹介してもらうのだが、この方の言葉遣いが以前から大変に気になる。それは「お能」「お舞台」「お仕手の先生(主役の先生)」と言う能の世界では常識かも知れないが一般常識的に考えて「馬鹿丁寧」とも取れる様な言葉を使われる事である。
 能の世界の方々が、ご自分達の世界観を大切にしてるのは解るし、そう言う部分は汲み取ってしかるべしであるが、我々は飽くまでも「お客様」である。見所(ここではみどころでと言う発音ではなく、けんしょと言う発音。能の世界では客席の事をさす)には、能を習ってる方々も居られるだろうが、それ意外の「普通の客」も多い。いや、もしかしたらここの自主公演能は、日本でも一番「能を習っていない一般客」が多いのでないかと思われる。つまり、純粋にエンターテイメントとしての能楽を鑑賞されてる方が多いのでは無いだろうか? 客席の雰囲気もそんな感じがある。なので、尚更「お舞台」とか言う表現は避けてもらいたい。これは最近の落語ブームで一般大衆、素人が噺家の事を「師匠」と言うのに似て、言葉としてちょっと違和感を感じる。こう言う言葉は素人ではなく玄人や門人(習ってる人、弟子、関係者)はそれで良いと思うが、全くの門外漢が使う言葉ではないと思う。良く例えるのだが、寿司屋で通ぶって「あがり」「むらさき」「がり」「おあいそ」と言う様な物ではないか。関係者は関係者にだけ解る言葉を使えば良いし、そうでなければ極端な表現は避けるべきだと思う。
 折角大衆に訴えかける様な魅力ある企画、舞台、内容なのでこう言う部分も気を使ってもらえればと思う。
 
上演中の写真は撮る事が出来ないので、終わってからの舞台。この舞台は戦前から在り、以前は椅子席ではなく桟敷席であった。
>>本日の公演
 内容に就いては今回は詳しく書かない。あまり良くなかったからでもある。狂言は悪くはないが「間」が詰まり過ぎてる感じがした。能は仕手が橋懸かりに出て来たときから少し不安になった。全体として申し合わせ(能の世界のリハーサルの様なもの)が充分ではなかったのかなと言う感じがした。謡や囃子も何かを待ってる様な間合いが気になった。良かったなと思えたのはアイ狂言の末社の神。
 次の公演に期待したい。能の事等はこれからも色々と書いて行くつもり。

 

2009年9月8日火曜日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 3   Do androids dream of electric sheep? iii


前々回、前回からの引き続き。

>>客間より老人室(居間)の方が更に格が高かった。
 耕三寺耕三師は実業界での成功の後、一人残された母親孝行の為にこの屋敷を建てた。その頃には寺は愚か辺は何も無かったらしい。どうやら、屋敷の前に通ってる道路等も師が私材を投げ打って整えたようである。他にも学校を建てたり色々と地元の開発に貢献した様である。どうやら、戦前のこの辺は果樹園の広がる単なるのんびりとした田舎であったらしい。この地を訪れた時に、風光明媚でありながらどこか学術的と言うか文化的な風土の感じがしたのであるが、この潮聲閣が立った頃はそうでもなかったのだろうか?生前、師は地元に観光名所が無い事を嘆いていたらしい。また、その事が後の耕三寺の伽藍配置に深く繋がってる様である。この辺の事は後で触れたいが、今は潮聲閣。
 さて、孝行の為に建てたこの和洋折衷洋式の館は、耕三師の母が最晩年の数年をここで暮らした。その頃は、ここは山でありそれを開き道も整えたようである。今は、この潮聲閣の真ん前には耕三寺の博物館、〔金剛館〕が経っているし、その向こうは最近出来たこの島出身の画家平山郁夫の美術館もある(前に延べた文化・学、芸術的な街の雰囲気はこれらに負う所が多いと思う)し、その向こうにはちょっとした集落に成っている。だが、潮聲閣が建った頃はその様なモノもなく、恐らくはこの小高い場所から海を臨めたのではないのだろうか。建物が塩の音を聞くと言う意趣なら、山号も潮聲山であり、寺号は耕三寺である。この山号寺号は母の菩提を弔う為に母の死後、得度して西の日光と称される伽藍を建立するのである。つまりは、この阿蘭若は母の墓とも言える。個人の為の物と言う点では、日光の東照宮が家康を神として祀ったと言うのが奇しくも一致する。因に日光は東照宮と言う「宮」で家康は「神」として祀られてる。
 その晩年の住まいである潮聲閣の中心は老人室と呼ばれる、母の居室、即ち居間であった。床の間を配した純然たる和室は堂上、大名の一室と言う趣であった。


床の間には三十六歌仙絵巻が「しれ〜」と下がっていた・・・。

>>無知とは怖い。
 それは、自分の事であるが、ここに三十六歌仙絵巻の一つがあったとは知らなかった。勿論佐竹本である。老人室の室礼の説明を一通り聴いていて床の間に目が釘付けになった。案内の女性は「三十六歌仙絵巻です」これも一連の流れ作業の様に覚えた台詞をサラリと宣われた。とこ柱や格天井などの近代の匠の技も大変に素晴しいし全て絶筆に尽くし難いと言うか、ここの建造物、家具、調度、設え等の本質に関しては前回、前々回とも触れていないし、論評するつもりは無い。三回に渡って書いてるが全て「事やモノの周囲をサラリと撫でてる」だけである。モノが良いとか悪いとか、建物が美しいとか見にくいとか、そう言う事に触れていない。
 「もちろん、写しですよね?」「ええ、現物は博物館の方にあります。毎年ゴールデンウィークに(と言う風に言うたと思います)出て来ます」「ここにあったんですか」「はい」と女性はこれも一連の丸暗記の解説の様な感じで応えられた。もうこれはパンチが大き過ぎた。こうなると外にある別館の〔金剛館〕に早く行きたく成って来た。こちらは仏教美術メインと言う事である。
 
金剛館は寺を一旦出た外にある。

>>仏教美術〔金剛館〕
 前々項で宗教に対しての考え方を示した。私は家系上の宗派としては先祖代々浄土宗に属する。しかし神社仏閣に詣でるのを趣味とするので、真言宗寺院ならばマントラを神道ならば祝詞を、と臨機応変に上げさせてもらってる。個人の営みとしての宗教には何の異論も反論も無い。政治家が靖国神社に詣でる事に関しても、しっかりと神道の道を外さずに参って貰えるのなら特に言う事もない。また、国民の認識上の宗教も前に上げた徳川が何故神社に祀られ、いや祀らなければ成らなかったのか、日本人に取って神とは神社とは何かと言う事をしっかりとふまえた上での靖国神社云々と言う話はしても良いと思うし、実際にはそう言う話をして来た。だが、この事が解らず、知らずに人の言う事を鵜呑みにしての靖国問題うんぬん等はハナから聴かないしそう言う人士と会話する事もない。勿論「人の言う事」はマスコミ、ネット、本等の擬人化されたものも含む。要は自分の意見のない人物、身の丈にあってない言葉を語るものである。
 団体としての宗教には関心はないとも書いた。しかし、私は超人でも修行の出来た人間でも無いので目で見て、耳で聞き、手で触れる感覚が必要で宗教を体現させる、建物や像、絵巻や建造物は必要であろうと思う。どんなに敬虔な信者であっても一番最初の入門の時にはこう言った具体性が無ければ、信者としての目は開かれないのではなかろうか?なので既存宗教団体の施設である寺や教会、仏閣に訪れる。
 神社仏閣に訪れる楽しみは、自然と対峙する、自分の心と向き合う、人の心に触れると色々とあるが自分に取っての最大の関心は、幼少期から建造物と仏像等を見に行くと言う事であった。これは物心付いた頃からそうしてきた。自宅では美術全集をひもとき、休日にここに連れて行け、この像が見たいと父母に懇願した。
 神や仏や守護神などの超常現象をそれこそ文盲の、無知の、無明の中に居る大衆達に法を、道を教える為に工芸品としての宗教美術はこうして関西で主に作られて行った。それは見るものに想像力や思索する力を与える様な物ではなく、見た瞬間に理解させる様なモノであった。今の様な仏像に哲学的な事を求めたり、あたかも静かに対話するかの様な「見仏」は本来から外れているし、これは近代的な「頭で考える」行為である。

これは耕三寺耕三師がまだ得度前に、母親の為の家潮聲閣を建てた時に作った給水塔であるが、これは実は当時の最先端技術を駆使した物であり、ここに師の技術者としての水準の高さが現れている。向こうに見えるのは平山郁夫美術館。

>>更に脱線を続ける。
 この金剛館の向こうには、平山郁夫美術館がある。氏もまた、宗教と深い関わりを持つ、いやある意味現代では絵仏師と言えるかも知れない。この島に生まれ広島で被爆し、そしてその後の模索を経て現在に繋がる絵画世界の細い道をたぐり、それはシルクロード言う広大な道と成り、今は日本を代表する画家となった。ここにあった作品で三賢者が集う絵があった。釈迦、キリストと孔子である。しかし、これは本当は氏は孔子ではなく「最後の預言者」即ちムハンマドにしたかったのではなかろうか?氏程に世界的に名声もあり、世界中を見てこれらた方なら絶対にそうだったと思うのであるが。しかしそれは無理だったのであろう。今そう言う事をすると「制裁」を加えると言う表明も出されるかもしれない。しかし、神道や仏教、またキリスト教のある程度はこれらと違って偶像を許してるので(キリスト教も神像は作らない。作るのはキリスト、母のマリアとカソリックならば聖人と呼ばれる人々である。回教はムハンマドの絵すらも認めたく無く、この数百年程は描かれていない様である。)美術品の幅も広い。ユダヤ教や回教となると偶像どころか芸術(品)を否定的に捉える部分(と言うか、そう言う解釈をすると言う事。ユダヤ教や回教が偏狭な宗教と言う事は決して無い。それは逆に言うと我々が彼岸の文化に無知なだけである。)があり、こう言った寺院、教会、会堂には絵とか像とかはあんまり残されては居ない。
 神道も元来は回教、ユダヤ教、キリスト教同様に偶像崇拝をしない。元が汎神論的と言うか、森羅万象が神と言う現象で成り立ってると言っても良いかもしれない。仏教が入って来る迄は神殿すらもなかった。今も奈良の大神神社や磯上神宮などの古い神社には、神殿はない。神殿の無い神社こそある意味で神社神道の正統とも言える。しかし、仏教と言う目に見える「科学」、詰まり日本建築では不可能であった高層の塔や耐久性の強い瓦葺きの建物と言う高度な土木建築技術を目の当たりにした旧勢力としての神道は、こう言った目に見える物の力に頼らざるを得なかった。
 建築に於ける神道は一定の基準を確立した。それは私たちが今日知っている鳥居であったり、手水舍であったりと言う今神社には必要欠くべからずモノ達である。だが、神像に就いては中世以来作られていない様である。そもそもが不可視である神と言う存在をしかも、実は日本語で神と言う時には「神々」と言う意味を暗に含むので具体的に表すのは格段に難しい。例えて言うならば、宇宙の端から端を説明するのに似ている。言葉では、書けるかも知れないが絵や彫刻では明らかに限界がある。現に仏教でさえ創造神とか至高神である様な存在は曼荼羅の様な抽象性の強い手段で表現される。


>>金剛館、ここにも矢張り意外な展開であった。
 寺と言うのは、寺宝と呼ばれる様な物を持っていて、それを一般に公開していたりする。中には、奈良の興福寺の様にその千年に渡る華麗なコレクションを堂々と公開してる(だが実際には正倉院展が超満員になるのに比べると寂しいのだが・・・)処もあれば秘仏として代々秘密のベールに包まれた物もあり、それらをご開帳して年に一度公の目にさらす様な事もある。
 しかし、ここは昭和の一桁に出来た寺なので、相伝の寺宝があるはずがない。また、今迄ここで視て来たものは、ここに縁の物や出土された物でもなく、かつては何処かで誰かの手で手厚く庇護されていた物が中心である。そして、その原則はこの金剛館でもその通りである。
 宗派は浄土真宗である。だが、寺宝は平安期から江戸時代の仏教美術が宗派を問わず並べられていた。また、明治以前の仏教の形、神仏習合と言う形式の美術品も並べられている。今は神社とお寺はそれぞれ別々であるがつい100年程前迄は「神も仏も」一緒くたであり、それこそが日本人の精神性でもあった。そう言う風に、ここには様々な宗派、時期の仏教(必然的に神道も含む)美術を保存している。それ以外にも神道工芸や考古資料の展示を行い年に数度の企画展も開催している。
  
この建物を作る時に文部省から図面を借りたそうである。これに関わらず、どの建物も師の技術者としての特徴が出て来てる構造、工法、発想がありそれらもここの独特の雰囲気として色濃く出ている。


    大団円

 耕三寺耕三師の詳細は善く解らなかったのだが、ここが参考になった。http://www.hico.jp/ronnbunn/uenoryou/kodomono/227-247.htm 長いので、第三段落 *「遠野をたずねる前、ぼくは瀬戸内海の島をまわっている。」以降から読めば良いかもしれません。この文章の筆者は児童文学の上野瞭氏。
 リーフレットを見ずにお山を回ったのあるが、ここに載ってる耕三師は何か想像していた人物に近かった。ここにも貼っておくが、ダウンタウンの松本のコントの時の扮装と言うか、中島らもがこれ又、コントの時に扮装してる様な雰囲気である。着ている着物からもただ成らぬ雰囲気が漂っている。潮聲閣で視た肖像画の軸よりも遥かに親しみ易いお顔である。


 耕三師は、実業界で成功でここに母親の菩提を弔う阿蘭若を建立した。師はそれ以前から地元の開発に関心を持ち観光名所としての寺の造営にも熱心であった様だ。それはここには所謂「箱モノ」としての観光名所が無かったからである。実業界での成功は特許と軍需工場に指定された事で莫大な金銭的成功をもたらし、師はこれらで名宝を買い漁った様である。恐らくは地元に貢献するべくにそれらを集めたのであろう。また、師のそう言う銘品、名品の追求はどうやら茶道や姻戚関係にも及んだようである。それが、藪内家の名品の所有に繋がっているのであろう、但し両家の具体的な関係は不明。だが、藪内宗家の惣領に許される燕庵の写しを許されてる居る点等はすでに一門人と弟子と言う関係を「何かで越えた」と考えなければ普通には到底理解出来ない。
 興福寺の像等も幾つかがあるがこれ等はまだある程度想像出来る事もあるが、しかし何がしかの財界、文化会、茶人、数寄者の大きな後ろ盾か後押しでも有ったと思う。更に伽藍を巡ってる時に垣間みたのだが、平等院鳳凰堂を模した際には文部省から図面を借りたと、サラリと注釈が書かれていたが、一体文部省が図面等貸してくれるのであろうか?言葉は悪いが瀬戸内の新興の一田舎寺に中央の官僚が何故便宜を図るのか、そんなに良い時代であったのか?
 学芸員の方に少しお話を伺う機会があったので訪ねてみたが、学芸員氏も実は実際の由来をご存じないらしく、奇妙な話ではあるがこれ程の名宝と言える様なコレクションがどの様に得られたのか不思議らしい。いや勿論、氏はプロとしての必要な情報は全てご存知の筈であるし、そう成ると益々(私なんかよりも)「どう言う風に集められたのか」は解らなく成ってくるかも知れない。だが、氏に幾つかの疑問をぶつけてみる事で解りかけた事があった。それらはここでは書く事は遠慮して置く、ネット上にも転がっていない情報であったし勘の良い人ならこの文章に書かれてる事で充分に解ると思えるし、実際にここを訪れて係の方々に色々とお尋ねに成れば良いと思う。
 ある意味大変世俗的でありながら、仏教と言う脱世の器での表現に挑み続けた耕三寺耕三師。その辺のアンビバレンツさがびんびんと私には響いて来た。謎は色々とあったが実は又行きたいと思う不思議な寺、博物館、観光施設であった。合掌。


耕三寺のWEBサイト
http://www.kousanji.or.jp/index.html



付記
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
http://www.sancya.com/book/book/syohyo_a38.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

2009年9月4日金曜日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 2   Do androids dream of electric sheep? ii


     茶祖堂の内部。ここからでも左は利休と言う事が解る。
承前
>>千利休が堂内に鎮座していた。
 未来心の丘を降りて、本堂の裏を通り救世観音大尊像の立つ所を過ぎると少し高い所にお堂が在るので登ってみる。この救世観音はかの法隆寺の救世観音を元にしてるのだが誰もこれと法隆寺を繋げる事は不可能であろう。最早、知識や想像力を逞しくしても到底解る物ではない世界に来てると言えるかも知れない。http://www.kousanji.or.jp/03kosanji/k_13kyusei.html
 さて、小高い所にあるお堂であるが裏から回ったから登り難かったし建物も掴みつらかったが、正面に行くと中華風の雰囲気の複雑な屋根である。が、中は簡素であり意外な人物の像があった。利休居士が鎮座してるのが外からでも解った。その隣は?藪内の流祖剣仲の様である。この堂は茶筅を供養する為に建てられたらしい。ここ迄来て、何がしかの茶との関係がある事が解って来た。一寺がここ迄の堂を建立する事はなみなみ成らぬ事では無い。寺と茶と言うのは無関係では無いし、茶室を持つ寺と言うのは多く、それらを貸し出す寺も又多い。だが、茶道具の供養の為、一堂を建立するのは茶の湯の上流の、詰まり、家元であるとか職分家と言うか家元では無いが、本家筋と深い関わりのある家柄であるとか、新しい家柄であってもこの本筋と太い繋がりの在る家柄との交流を示しているとも言えるだろう。そしてこの太いパイプは恐らく薮内の本丸であろう。先ほどの見た様な茶碗などがここに在る訳の一端が解った様な気がした。

>>お母様と呼ばれる耕三寺耕三師の母。
 次に行ったのは潮聲閣と言うここの中でも最古参の建物である。日本家屋とゼツェッション風の折衷様式の近代建築である。いや、どこにもそういう風に書かれては無いが恐らくはその考え方で間違ってはいないと思う。先ずは、裏口から入るがこちらは和風建築である。ここは土間に成っていてここで靴を脱ぎ、中に上がらせて貰う。暫く行くと係の年配の女性が案内に付いて来てくれた。一通りの説明を受けるのだが、ここでも大変に気になるのはこの屋敷は「初代住職のお母様」と言う言葉遣いである。「お母様」と言う言葉は丁寧で上品な言葉なのかも知れないが、来客である我々に対しての言葉としてはマスコミの最近遣う「天皇様」程の違和感がある。
 我々は彼らに対しては「お客様」なのではないのであろうか?
 いや、まぁ博物/美術館としてより宗教施設として参拝してると考えて「お客様」では無いとしよう。それにしても、こちらの「お母様」と言う表現は一段高い所から響いてる様に感じる。そして年配の女性は覚えた通りの説明を続けてくれる。要約すると、この建物は耕三師が成功の後、母親孝行(彼の父は子どもの時に逝去)の為に、当時果樹園であり特に何もない、この田舎に建てた家で材料や調度等は全て当時の名品、銘木を用いてると言う事である。詳しくは解らないが、恐らく今和風建築でこの様にふんだんに銘木を用いて建てる事は出来ないであろう。もう、その様な銘木が採れるのかと言う疑問が先ずは有る。あってもそれを使いこなせる大工や工人が居るのか? いや居るのは、居る筈であるがそう言う事をして、この様な建物を今建てるよりも、超高級マンションを建てる方が安く、簡単に出来ると思う。そう言う建物で有ると言う風に書けば簡単に解ってもらえるか。女性の説明にイチイチ驚きながら部屋を案内された。

>>玄関の意味は?
 前に書いた様に折衷様式、和と様の融合を試みた建物である。風呂は洋式であった。洋館の方は洋式の調度の原則である。建物が建った時代は西洋の様式建築は衰退していて、フリースタイルからモダニズムに入っている。だが、この頃の有産階級でモダニズムの大胆さを取り入れる層は、多く無かったのか、ここもモタニズム建築と言う程の斬新さはない。室内にはデコやヌーボーを彷彿とさせる様な調度や飾りはあるが全体として欧州の様式の流れにあると言う感じである。なので恐らくは斬新なモダニズムと言うよりは、流麗なる
ゼツェッションと言う感じなのだろうか?そう言えば耕三寺そのものもゼツェッション、と言う風に言っても良いかも知れない。
 客間は椅子とテーブルが居並ぶ様式であるが椅子やテーブルは中華風である。ここで案内の女性に「この屋敷には昔どの位の従業員が居たのですか?これだけの設備を維持しようとしたら相当な数の人間が必要やったと思うんですが。例えば、そこに暖炉がありますが、これの扱い方もちゃんと習得した人間が要るでしょうし、お風呂はガスではなくへっついさん(釜炊きの事)やし、他にも庭の手入れとか日常的な事だけでもある程度の技術を習得した人でないと出来ないと思います。ここを毎日の生活空間とするならば、相当数の使用人と言うか従業員が居たと思うのですが・・・」と聴いた。恐らくこの様な質問を受けるのは初めてだと思うが、この年配の女性には全く解りかねる事の様で「さぁ・・・」と言う応えしか出て来なかった。

この裏口から中に入る。丁度、団体客が出て来た所で
中には誰もいず、ジックリと見て回れた。


>>かつては身分社会であった日本と言う国。
 それから玄関に通された。こちらは玄関と言うより、貴人口と言う方が良いのでは無いかと思えた。詰まりこの玄関は正客を迎える玄関である。古い屋敷と言うのは、往々にしてこう言うモノがある。
 玄関を入った辺が書院造りになって居て、違い棚には華頭窓までもある。そして、玄関の前には堂々とした門が閉ざされている。これは正客も正客、大臣や公侯伯子男・爵などの所謂名士と呼ばれる人たちを迎える玄関である。勿論、ここも銘木に拘り抜いて拵えられている。ここでもこの門と玄関に付いて聴いた。「あの様な門を作ると言う事は、何方か位の高い方を、例えば大臣であるとか、貴族であるとかそう言う人たちですけど、を迎える為の門だと思いますが、一体ここには誰が訪ねて来られたのですか? 恐らく、昔はあの門の向こうかどこかに車寄せ成り何成り合ったと思うのです。あれほどの門を用意するのは誰が訪れたのですか?」この質問には老女は全然答えられなかった。因にこの屋敷が建てられた頃には耕三寺耕三師は、俗名を名乗り、住まいは大阪にあった。屋敷の主人は飽くまでもお母様である。

     入ってすぐに浴室がある。

 身分の事をちょっと書く。
 前回の言葉、分相応と言う事にも関わってくる。一応は昔は身分制度と言うのがあり、好むと好まざるとに関わらず、そう言う制度の中で生活をしていた。明治維新になり建前としての身分制度は解消されたがこれは何の事はなく、新しい身分制度の確立である。要は今迄は身分としては低かった者達が新興勢力として自分たちも新しい特権階級としたのである。その解り易い形として先ほど上げた天皇を頂点とした特権階級制度、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となる。この制度は近代に出来た。侯爵等と言う概念は古代中国のものでこの呼び名は日本では正式には使われなかったようであるが、近代期になって一気に復活した。制度は欧州の帝国主義を参考にしている。新興勢力と言ったが、厳密にはこれは正しく無く実際には多くの公家、大名家など何百年に渡って権力側に居た人間達も含むのであるが、徳川幕藩体制の中では、メインストリームではなかった人たちと言う事である。幕藩体制化では天皇の方が徳川将軍よりも遥かに位が上であるが、実質の政治、軍事、経済その他全ては徳川の方が上であり、京都朝廷は飽くまでも「どマイナーな存在」であった。
 さて、近代はそう言う訳で四民平等と言う風に言っていながらも、厳然とした分相応の社会が構築されていた。また、この階級には納税額や国に対する貢献等(一番手っ取り早いのは戦争で功績を立てるだろうか?これ等は資本は要らず、ただ現場での根性のみかも知れない)により、この勢力に加わる事も出来たのである。ただし金があれば誰でも身分が変えられた、と言う訳ではない。また、敢えて平民身分に留まれた方々も多いと思われる。では現代日本はどうなのか?と言われれば制度としては無い。けど矢張り見えない形で身分や氏、階級と言うものは日本人の中に活きてる。これは話が長く成りそうなので今回は書かないが。

       浴室を出た廊下。奥は応接間、左は中庭。

 話が随分長く成っているが、一応建前としては身分制度は近代と近代以前とでは確実に違うものに成ったと言えるのである。それは、幕藩時代でも、少なからず商業や産業などで金銭的に成功する者と言うのは居た。そしてその者の出自が農民や商人なら、その成功や藩なり村なりのコミュニティへの貢献に寄り、庄屋なり郷士なりの身分と成り、名字帯刀と言う事もあった。だが、この成功者に対して支配階級の領主なり、藩主なり、代官なりが、この立身出世した者の私宅を訪れる事は殆ど無かったで有ろう。成功者が逆に支配者を訪問をする事を許される事はあっても、恐らくはその逆は正式にはないと思う。あるとすれば、領主の部下が上意として名代を勤める事になる。しかし、それにしても然るべき手段が講じられる様になる。来るのは部下であるが、この部下が運んで来るのは上意と言う「上の意志」である。「上」はこの様なむさとした処にワザワザと来てくれないので、変わりに部下が名代として代役で来る。代役と言え、その本質は「上」即ち、殿様である。その為にはそれなりの馳走、詰まりもてなしが必要になる。立派な玄関や殿様の使いが通るに相応しい門が必要になる。昔はこの使いが来ると言うだけの理由で門を作らなければ成らなかったのである。非常に面倒くさく煩わしい習慣かもしれないがそう言う物であったのだ。この煩わしさのある種の究極が芝居の忠臣蔵に於ける浅野内匠頭の役、勅使の饗応役と言う立場である。これを見事にこなせば立身出世だった訳だが、煩わしさに耐えかねた結果が忠臣蔵と言う、後世に伝わる悲劇となる。

      この門の奥が玄関と成る。

 しかし、近代にはある種の身分の人たちが色々な所に顔を出す時代でもあった。かつては天皇は京都から動かなかった。けど東京に来た、そして二度と京都に帰らなかった。東京に来たのみならず、その後明治帝は全国を訪れた。それは日本が幕藩体制から天皇と言う国家元首を中心とする新しい制度に生まれ変わる為に、その新しい権威を全国に普く知らしめる為に最も手っ取り早い手段であったからである。それ迄の日本中の人々には、将軍は完全に「想定外」の人物で、天皇と言うのはその存在すらも曖昧であった。将軍どころかその国の殿様でさえ、気軽に城下に出て来る事も無ければ庶民の家を訪れる事等、間違ってもない。そう言う状況の中での常識が染み付いた一般大衆に「伝説のカリスマが俺の街に来る!」と言うイベントが必要であった。その為に(華美を好まなかった明治帝の意に反して)多くの門が立てられた筈である。
 天皇の例は解り易くする為に書いたのであって、何もここに天皇が来たとか言う話は無いと思う。あれば、この寺の性質上それを堂々と掲げてる様な気がするし、そう言う様な表示も話も出て来なかったと思う。時代は近代に成り、位の高い人々も気軽に身分が下のものを訪れる様になった、と言う事を書き記しておきたかったので長く成ったがこう言う話を書いた。
 気軽に来る様に、その種の身分制度は確かに崩れた。だが、まだまだこの当時の人々は古い教育や教養を受け継いでいるので、急には変えられない。この時代な人は応接間や玄関、門に貴人が来た時用に然るべき格のあるモノを作るのであった。今なら自分の為に贅沢な部屋を作るだろうが、つい数十年前迄は応接間と言う客人様の部屋にこそ贅を尽くしたのは、その名残りなのである。人間は案外保守的なもので、いくら風潮が新しく成っても、直ぐにはその壁を乗り越える事は出来ないのである。今でも、ペットボトルのお茶を和服を着た女性が「ラッパ飲み」する場面のCM、ポスターは無いと思う。和服、伝統、格式と言う得体の知れないもの前に制作側が躊躇しているのである。その様な絵づらは想像が出来ないし、何よりもクライアントがOKしないであろう。たかがペットボトルの茶と言えども「伝統的に優雅にお茶を嗜む」と言う見えない情報がここに織り込まれているのである・・・。
 詰まり、この玄関の格と言うのは今書いた様な事が意識として厳然と存在した設えと言う事である。それは、見た目はただ単に拘った豪華な造りのと言う事であるが、ここ迄してるのは然るべき客人を待つと言う事である。今、総理大臣なり一国の大使や、外国の王侯が来たなら我々が入場した入り口ではなく、今閉まっている門が開かれるであろう。そう言う門である。

         応接間。

長く成ったので、更に続く。

2009年9月2日水曜日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?     Do androids dream of electric sheep?


耕三寺と言う寺の事は良くは知らなかった。 自分が自転車に乗る様になり、色んな所で「しまなみ海道は良い」と言う話を聴き、いつしか耕三寺と言う寺がその辺りにあると言う事を知って行った。しまなみ海道に関しても、良くはしらなかったが何となく「いつかは行ってみたい所」と言う感じになった。そして、そのしまなみ海道に関する情報にあたると、耕三寺が出てくる。耕三寺に関して何となく知っていた事は、
#個人が母の孝養の為に建てた   
#西の日光と呼ばれる様な派手な建築物である 
 
#又その建築は日本全国にある有名建築の模倣である

と言う様な事であった。ここ迄の段階では特に調べる事もしなかった。どうせ戦後の建築であろうし、特に自分に関心ありそうな感じではなかった。余裕が有れば行きたい、と言う感じ。しまなみ海道の道中で最も行きたかったのは、大山祇神社である。ここは外せないと思っていた。大山祇神社には現存する国宝、文化財級の甲冑の80%を所有展示する博物館が有る。ここはもう、昔からいつか行きたい所であったのでしまなみ海道と言えば自分としては先ずここを外すと何の意味も無いと思っていた。

>>さて、耕三寺に付いてであるが。
 このブログを書く為にも調べたが余り実態は得られなかった。書店でもここに関しての本等を見た事もなく、WEB上でも詳しく語っている所は無かった。なので、ここに行く前に調べていても実際に行く前以上の興味は湧かなかったかも知れない。
 そして、実際に門前に着いた時には噂に聞いていた派手な建造物達が目に入る。この山門も含めて国登録有形文化財である、詰まりは比較的新しい建造物と考えて良いと思うが、その程度に古いと言う事でもある。詰まり、自分が考えていたのよりも(古くても1950年代後半で、高度経済成長の頃に掛かると思っていた)古いと言う事である。
 蘭若であるが不思議とその雰囲気がない。いや、勿論それらの建造物が奈良や京都に有る様な「古びた雰囲気の古い建物」ではなく極彩色に彩られた華麗な色合いの伽藍だと言う事ではない。そんなに日本文化に対しての無知ではない。元来の神社仏閣はこう言うものであり、現代日本人の認識上の神社仏閣はこうではなく、古びて色あせた神社仏閣が有り難いと言うのかも知れないが、自分にはその様な考え方は無い。入り口で「全部見るのにどれ位かかりますか?」と聴くと「40分ほどで回れます」と言う事であった。確かに素通りすればそれも可能であったかも知れない。だが、それは結果として出来なかった。もし、建築、美術、芸術、宗教、文化に興味が有れば2時間は普通に要すると考えた方が良い。これは、回り終わってからの感想である。なので、この時点では特に予備知識も無くどの様な収蔵品が在るのかも知らずに「40分か」と思って取りあえずは入館料(蘭若ではあるが博物館、美術館でもあるので入山料ではなく入館料となる。ここら辺りも「蘭若であるが不思議と・・・」言う辺である。)
 夏の終わりに近づいたのだが、ここ瀬戸内の島の気候は大阪を出たときよりも遥かに夏に近く、曇天ながら眩しく温い風が吹き抜ける。今年は大阪は冷夏であったがこの辺は大阪を出る時に想像していたのと全く違って、夏としての感じを充分に残していた。その少し眩しい中、山門、中門を抜けいよいよ本山、即ち伽藍へと向かう。

 これだけを見れば、確かに日光と言う風な表現が出来るかも知れない・・・。

>>ある意味テーマパークとも言える。
 勿論、皮肉でもなんでも無い。ここ迄忠実にそして独自の解釈でもって日本全国の名建築と呼ばれるものを文字通り「一堂に会する」事が出来ているのであるから、名作建築テーマパークとして充分に機能している。更にこれらのオリジナルが時代とともに失った元通りの色彩が残されているのである。これらを見る事により、今の古寺はかつては古寺では無かったと言う当たり前の事に気付けるのである。
 建物は木造もあるが鉄筋コンクリート造りの物もある。建築様式は和様はなく、どれも主に大陸伝来の物である。仏教寺院であるのでそれはそれでも善いが、入山してもこの寺がどの宗派に属するのか解らなかった。自分は大体建物を見ればどの宗派か解るし、今はその宗派でもかつては違う宗派ではなかったかと言うのもある程度は建物を見れば解る。だが、ここでは解らなかった。それ位ある意味雑然、いや宗派を越えた建築様式と言えば良いか、色々な物が含まれている。しかし、妙な俗っぽさはないし、手作り風のエーブルアート的な感じも漂っていない。こう言う地方にありがちな建造物群独特の泥臭さがない。かと言って洗練されてるのかと言うとそれを強く肯定する事も出来ない。そして、その微妙な気分のまま順番に展示物を見に行った。

>>最初は近代美術〔法宝蔵〕を観る。
 何の予備知識も無かったのでちょっと驚いた。近代期名画がこれまた字義通りに「一堂に会してる」状態。自分はこの時期のこの辺の作家に余り関心は無いがこれは堂々とした物であると言う雰囲気が漂う。http://www.kousanji.or.jp/04kindai/04ktenji.html
 この時にはまだ、この寺の由来も詳しく知らず、建造年ももっと新しいと思っていたので高度経済成長の直前に、恐らく骨董の市か何かで地道に購入したのかと思っていた(それにしてもこれだけの品を手に入れるだけでも可成りのツテ、コネ、情報通でないと無理であろうが)のであった。その当時にはまだ近代絵画が購入する事も可能であったと言う事を聴いた事もある。今となってはそう言う事もないし、何よりこれらの作品の値段が固まってしまってるし、市場に出る前に市にも出ないであろう。だが、一昔前は一握りの好事家や数寄者などが富みにより何とか購入出来る頃があったのである。それの恐らく最後の時期に購入したのか? などと素人の憶測で物事を推し量っていた。


>>続いて茶道美術〔僧宝蔵〕で驚く。
 向かいは僧宝蔵である。看板があり「薫風の茶展」とある。ここに茶道具のコレクションが在るとは露とも知らなかった上に、先ほどの展示物を見せられたので否が応でも期待が膨らむ。この時もまだここのリーフレットすらも視ていないのでそのコレクションに驚かされる。藪内家(茶道藪内家の家元)の俗に「お道具」と呼ばれるクラスの、いやもっともっと世間一般的に解り易く言うと「お宝」と呼ばれる物である、名品が連なってる。それらが先ほどの近代美術同様に「しれ〜」と並んでるのである。こう成ると想像力を逞しくしても良く分からなく成ってくる。
 この時点では開山者(即ちこの寺を建てた耕三寺耕三、俗名金本福松)の事は何にも知らない。茶人であった事も知らない(茶人で無いと集めない)が、先ほど延べた様に高度経済成長の前の頃迄は比較的「お宝」が入手し易い時期が有ったそうなのでその頃の「出物」では無かろうか、と思う物の全然すっきりしない。先ほどよりも謎が謎呼ぶ感じである。大変失礼を承知で書かせてもらうが、なぜこの様なお宝の数々が縁も縁も(えんもゆかりも)無さそうな鄙びた瀬戸内の小島にあるのか?なぜ阿蘭若に突然近代日本画の清華が、藪内の家元に伝わってそうな名品が??
全く何にも繋がらなかった。

>>高度資本主義経済の中の日本人とそれ以前。
 今は大概の物はお金で買える。何も堀江元社長でなくても、大抵そう思っているし事実社会構造はそう成っている。それが悪い事とも個人的にはちっとも思わない。その辺の話も含めて書く。何故、この小島に在るのかと言うと答えは簡単、「買ったから」であろう。いや、全くその通り。視た所「この○○は××より寄贈」と言う但し書きや注釈も展示物には添えられて無い。個人コレクションを美術、博物館の展示物としてるのであろう。そしてこれらの「お宝」を集めたのは前に記した耕三寺耕三師である。
 しかし、バブル以前と言うのは実は買えないものも多かったと言う事実に着目しなければ成らない。日本人は名誉とか伝統とか格式を重んじる。ところがこれらの大半はおいそれとは現金では買えない(買い方はあるし全部が買えない訳ではない。なので大半とした。)それに、格式に近づく迄に準備金も居る。この準備金の方が高かったりする。例えば、骨董と言われる世界があるがこれは骨董商達が成り立たせてる訳であり、古物商とか古道具屋とは明らかに一線を画すのである。簡単に言うと、同じ時代に作られた茶碗で作者が同じでも誰の手を経て来たかと言う事で市場に出た時に雲泥の差が出る。同じ李氏朝鮮の茶碗でも室町将軍から戦国武将に行きそれを拝領した茶人が使ったものと、今日四天王寺の縁日で韓国人が持って来た出土品の茶碗では全く違う値段に成る。今風の表現をすれば前者は「格付け」されてる訳である。物は殆ど同じなのであるが・・・。しかし、その物の値段を証明するのは何かと言うと「箱」と呼ばれるものである。そこには由来が書かれてる訳である。この箱に書かれてるものを「箱書き」と呼びこれが決定打に成ると言っても過言ではない。つまり殆ど同じ品物でも、骨董屋と古道具屋では全て色々と変わってしまうのである。お金さえ出せば買える今時の高級車とは全然違う世界がこの頃には厳然とあった。いや、買えないと言う事はなかったと思うが、買う迄には可成りの根回しと言う散在が必要な筈だし、そこに至る迄に又更に別の散在が必要な筈である。
 骨董屋での買い方と言うのは、今時みたいなものの買い方ではない。そもそも商品自体が定期的に仕入れられる物ではない。こう成るとその骨董商が持ってる背後関係が大きく物を言う様に成る。持ち主は由緒あるモノを出来れば内緒に信頼出来る筋に高額で引き取って貰いたい訳である。また、仕入れたその品物を然るべき筋に売るのが名店と呼ばれる骨董商の使命とも言える。大体が何代にも渡って関わる商売と顧客の関係なので「良い値が出たので売ります」だけでは将来にやって行けなく成るからである。そう成ってくるとしっかりとした商品程、人の紹介でもなければ手には入れられない。ここに展示されてる「お宝達」はその様な状況でも中々に集め難いのでは無いかなと思われた。例えば、ここに集まってる様な個人コレクションが訳あって「出物」として登場したその時に購入出来る機会があったので購入したと言うのなら話は解るが・・・。
 今はお金で何でも買える。骨董品やお宝もネット上で取引されているので自分の手に入れたい物がどの位で取引されてるのかと言うのも比較的簡単に解る。例えば、少し前迄は古本屋には夫々専門性があり、その専門分野の古本に就いては詳しいが、門外のものは専門店に持って行った方が高く買ってくれますよ、などと言うものであった。しかし今はネットの前のアルバイトのおにーちゃんでもビンテージコミックの下取り相場を知ってる。今ここに書いた様な私の拙い知識も今ならインターネットでちょっと調べれば直ぐに解る。少し前は、地道に本を読む、(その本にたどり着く迄が更に技術を要するのである)詳しい人に教えを乞う、等の地道な情報収集が主であったが、今はそう言う事でもない。これは確かに便利で良い傾向ではある。だが、消費者としての買う楽しみの一つは確実に減ったのではないか?
 しかし昔は何でもかんでもがおいそれとは金で買える訳ではなかったと言う事を認識しておいて欲しい。身分相応と言う言葉も活きていたのである。
 
 

>>すこし耕三寺耕三師が見えてくる。
 謎に包まれたまま、足は千仏堂に向かう。ここで入り口の人に話を聞くと耕三師は自分が思っていたよりも僅かに古い人と言う事が解った。彼は明治時代の人で戦前すでに実業界で成功を収めていて、彼の所有する会社は戦前軍需工場に指定されていたらしい。
 又、寺は戦前から着手したらしい。実業界での成功の後得度出家して寺の造営に着手。宗派は浄土真宗と言う事。いや、しかし浄土真宗と言う印象が全くない。親鸞や蓮如に関しての一言もない感じどころか浄土真宗とハッキリ示す様な物は何も無かった様に思う。もっと言うと釈迦も阿弥陀も寺と言うメディアを通しては浮かび上がって来ない。それよりもここの寺の開山初代耕三寺耕三(とその母)に関しては可成り饒舌であり、あたかも彼が一宗派の開祖の印象すらある。しかしそれが悪い事でもなんでも無いであろうし、そんな事を批判するつもりも無い。そもそも私個人は人間の営む団体としての「宗教」には懐疑的立場を取るからである。しかし、ハッキリとさせたいのは個人の体験としての、一人生に於ける実践としての「宗教」には関心と敬意を払いたい。
 それで少し耕三師の事が解った様な気がして次に進んだ。この千仏堂は戦後建築である。だが、ここにもとてつも無い金額が投資されてるのが解る。雰囲気からしたらこれこそ高度経済成長の頃ではないかと思えたが後で調べると果たしてそうであった。そしてこの洞窟を抜けると未来心の丘と言う所に向かう様に成っている。
 未来心の丘はこの蘭若でも最も新しい建造物に属する様だ。一面がイタリアから運ばれて来た大理石であり、その頂上も現代美術作家の杭谷一東(くえたにいっとう)氏に寄るこれ又壮大な作品である。ここだけあたかも地中海である。真夏の本当に日差しが眩しい日には目がくらむであろう白亜の世界である。そして頂上から周囲を一望出来、ここからの眺めも素晴しい。眼下に白亜、蘭若、そして瀬戸内の海や島々…。

           未来心の丘からの眺め。

この項、続く。