2009年9月2日水曜日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?     Do androids dream of electric sheep?


耕三寺と言う寺の事は良くは知らなかった。 自分が自転車に乗る様になり、色んな所で「しまなみ海道は良い」と言う話を聴き、いつしか耕三寺と言う寺がその辺りにあると言う事を知って行った。しまなみ海道に関しても、良くはしらなかったが何となく「いつかは行ってみたい所」と言う感じになった。そして、そのしまなみ海道に関する情報にあたると、耕三寺が出てくる。耕三寺に関して何となく知っていた事は、
#個人が母の孝養の為に建てた   
#西の日光と呼ばれる様な派手な建築物である 
 
#又その建築は日本全国にある有名建築の模倣である

と言う様な事であった。ここ迄の段階では特に調べる事もしなかった。どうせ戦後の建築であろうし、特に自分に関心ありそうな感じではなかった。余裕が有れば行きたい、と言う感じ。しまなみ海道の道中で最も行きたかったのは、大山祇神社である。ここは外せないと思っていた。大山祇神社には現存する国宝、文化財級の甲冑の80%を所有展示する博物館が有る。ここはもう、昔からいつか行きたい所であったのでしまなみ海道と言えば自分としては先ずここを外すと何の意味も無いと思っていた。

>>さて、耕三寺に付いてであるが。
 このブログを書く為にも調べたが余り実態は得られなかった。書店でもここに関しての本等を見た事もなく、WEB上でも詳しく語っている所は無かった。なので、ここに行く前に調べていても実際に行く前以上の興味は湧かなかったかも知れない。
 そして、実際に門前に着いた時には噂に聞いていた派手な建造物達が目に入る。この山門も含めて国登録有形文化財である、詰まりは比較的新しい建造物と考えて良いと思うが、その程度に古いと言う事でもある。詰まり、自分が考えていたのよりも(古くても1950年代後半で、高度経済成長の頃に掛かると思っていた)古いと言う事である。
 蘭若であるが不思議とその雰囲気がない。いや、勿論それらの建造物が奈良や京都に有る様な「古びた雰囲気の古い建物」ではなく極彩色に彩られた華麗な色合いの伽藍だと言う事ではない。そんなに日本文化に対しての無知ではない。元来の神社仏閣はこう言うものであり、現代日本人の認識上の神社仏閣はこうではなく、古びて色あせた神社仏閣が有り難いと言うのかも知れないが、自分にはその様な考え方は無い。入り口で「全部見るのにどれ位かかりますか?」と聴くと「40分ほどで回れます」と言う事であった。確かに素通りすればそれも可能であったかも知れない。だが、それは結果として出来なかった。もし、建築、美術、芸術、宗教、文化に興味が有れば2時間は普通に要すると考えた方が良い。これは、回り終わってからの感想である。なので、この時点では特に予備知識も無くどの様な収蔵品が在るのかも知らずに「40分か」と思って取りあえずは入館料(蘭若ではあるが博物館、美術館でもあるので入山料ではなく入館料となる。ここら辺りも「蘭若であるが不思議と・・・」言う辺である。)
 夏の終わりに近づいたのだが、ここ瀬戸内の島の気候は大阪を出たときよりも遥かに夏に近く、曇天ながら眩しく温い風が吹き抜ける。今年は大阪は冷夏であったがこの辺は大阪を出る時に想像していたのと全く違って、夏としての感じを充分に残していた。その少し眩しい中、山門、中門を抜けいよいよ本山、即ち伽藍へと向かう。

 これだけを見れば、確かに日光と言う風な表現が出来るかも知れない・・・。

>>ある意味テーマパークとも言える。
 勿論、皮肉でもなんでも無い。ここ迄忠実にそして独自の解釈でもって日本全国の名建築と呼ばれるものを文字通り「一堂に会する」事が出来ているのであるから、名作建築テーマパークとして充分に機能している。更にこれらのオリジナルが時代とともに失った元通りの色彩が残されているのである。これらを見る事により、今の古寺はかつては古寺では無かったと言う当たり前の事に気付けるのである。
 建物は木造もあるが鉄筋コンクリート造りの物もある。建築様式は和様はなく、どれも主に大陸伝来の物である。仏教寺院であるのでそれはそれでも善いが、入山してもこの寺がどの宗派に属するのか解らなかった。自分は大体建物を見ればどの宗派か解るし、今はその宗派でもかつては違う宗派ではなかったかと言うのもある程度は建物を見れば解る。だが、ここでは解らなかった。それ位ある意味雑然、いや宗派を越えた建築様式と言えば良いか、色々な物が含まれている。しかし、妙な俗っぽさはないし、手作り風のエーブルアート的な感じも漂っていない。こう言う地方にありがちな建造物群独特の泥臭さがない。かと言って洗練されてるのかと言うとそれを強く肯定する事も出来ない。そして、その微妙な気分のまま順番に展示物を見に行った。

>>最初は近代美術〔法宝蔵〕を観る。
 何の予備知識も無かったのでちょっと驚いた。近代期名画がこれまた字義通りに「一堂に会してる」状態。自分はこの時期のこの辺の作家に余り関心は無いがこれは堂々とした物であると言う雰囲気が漂う。http://www.kousanji.or.jp/04kindai/04ktenji.html
 この時にはまだ、この寺の由来も詳しく知らず、建造年ももっと新しいと思っていたので高度経済成長の直前に、恐らく骨董の市か何かで地道に購入したのかと思っていた(それにしてもこれだけの品を手に入れるだけでも可成りのツテ、コネ、情報通でないと無理であろうが)のであった。その当時にはまだ近代絵画が購入する事も可能であったと言う事を聴いた事もある。今となってはそう言う事もないし、何よりこれらの作品の値段が固まってしまってるし、市場に出る前に市にも出ないであろう。だが、一昔前は一握りの好事家や数寄者などが富みにより何とか購入出来る頃があったのである。それの恐らく最後の時期に購入したのか? などと素人の憶測で物事を推し量っていた。


>>続いて茶道美術〔僧宝蔵〕で驚く。
 向かいは僧宝蔵である。看板があり「薫風の茶展」とある。ここに茶道具のコレクションが在るとは露とも知らなかった上に、先ほどの展示物を見せられたので否が応でも期待が膨らむ。この時もまだここのリーフレットすらも視ていないのでそのコレクションに驚かされる。藪内家(茶道藪内家の家元)の俗に「お道具」と呼ばれるクラスの、いやもっともっと世間一般的に解り易く言うと「お宝」と呼ばれる物である、名品が連なってる。それらが先ほどの近代美術同様に「しれ〜」と並んでるのである。こう成ると想像力を逞しくしても良く分からなく成ってくる。
 この時点では開山者(即ちこの寺を建てた耕三寺耕三、俗名金本福松)の事は何にも知らない。茶人であった事も知らない(茶人で無いと集めない)が、先ほど延べた様に高度経済成長の前の頃迄は比較的「お宝」が入手し易い時期が有ったそうなのでその頃の「出物」では無かろうか、と思う物の全然すっきりしない。先ほどよりも謎が謎呼ぶ感じである。大変失礼を承知で書かせてもらうが、なぜこの様なお宝の数々が縁も縁も(えんもゆかりも)無さそうな鄙びた瀬戸内の小島にあるのか?なぜ阿蘭若に突然近代日本画の清華が、藪内の家元に伝わってそうな名品が??
全く何にも繋がらなかった。

>>高度資本主義経済の中の日本人とそれ以前。
 今は大概の物はお金で買える。何も堀江元社長でなくても、大抵そう思っているし事実社会構造はそう成っている。それが悪い事とも個人的にはちっとも思わない。その辺の話も含めて書く。何故、この小島に在るのかと言うと答えは簡単、「買ったから」であろう。いや、全くその通り。視た所「この○○は××より寄贈」と言う但し書きや注釈も展示物には添えられて無い。個人コレクションを美術、博物館の展示物としてるのであろう。そしてこれらの「お宝」を集めたのは前に記した耕三寺耕三師である。
 しかし、バブル以前と言うのは実は買えないものも多かったと言う事実に着目しなければ成らない。日本人は名誉とか伝統とか格式を重んじる。ところがこれらの大半はおいそれとは現金では買えない(買い方はあるし全部が買えない訳ではない。なので大半とした。)それに、格式に近づく迄に準備金も居る。この準備金の方が高かったりする。例えば、骨董と言われる世界があるがこれは骨董商達が成り立たせてる訳であり、古物商とか古道具屋とは明らかに一線を画すのである。簡単に言うと、同じ時代に作られた茶碗で作者が同じでも誰の手を経て来たかと言う事で市場に出た時に雲泥の差が出る。同じ李氏朝鮮の茶碗でも室町将軍から戦国武将に行きそれを拝領した茶人が使ったものと、今日四天王寺の縁日で韓国人が持って来た出土品の茶碗では全く違う値段に成る。今風の表現をすれば前者は「格付け」されてる訳である。物は殆ど同じなのであるが・・・。しかし、その物の値段を証明するのは何かと言うと「箱」と呼ばれるものである。そこには由来が書かれてる訳である。この箱に書かれてるものを「箱書き」と呼びこれが決定打に成ると言っても過言ではない。つまり殆ど同じ品物でも、骨董屋と古道具屋では全て色々と変わってしまうのである。お金さえ出せば買える今時の高級車とは全然違う世界がこの頃には厳然とあった。いや、買えないと言う事はなかったと思うが、買う迄には可成りの根回しと言う散在が必要な筈だし、そこに至る迄に又更に別の散在が必要な筈である。
 骨董屋での買い方と言うのは、今時みたいなものの買い方ではない。そもそも商品自体が定期的に仕入れられる物ではない。こう成るとその骨董商が持ってる背後関係が大きく物を言う様に成る。持ち主は由緒あるモノを出来れば内緒に信頼出来る筋に高額で引き取って貰いたい訳である。また、仕入れたその品物を然るべき筋に売るのが名店と呼ばれる骨董商の使命とも言える。大体が何代にも渡って関わる商売と顧客の関係なので「良い値が出たので売ります」だけでは将来にやって行けなく成るからである。そう成ってくるとしっかりとした商品程、人の紹介でもなければ手には入れられない。ここに展示されてる「お宝達」はその様な状況でも中々に集め難いのでは無いかなと思われた。例えば、ここに集まってる様な個人コレクションが訳あって「出物」として登場したその時に購入出来る機会があったので購入したと言うのなら話は解るが・・・。
 今はお金で何でも買える。骨董品やお宝もネット上で取引されているので自分の手に入れたい物がどの位で取引されてるのかと言うのも比較的簡単に解る。例えば、少し前迄は古本屋には夫々専門性があり、その専門分野の古本に就いては詳しいが、門外のものは専門店に持って行った方が高く買ってくれますよ、などと言うものであった。しかし今はネットの前のアルバイトのおにーちゃんでもビンテージコミックの下取り相場を知ってる。今ここに書いた様な私の拙い知識も今ならインターネットでちょっと調べれば直ぐに解る。少し前は、地道に本を読む、(その本にたどり着く迄が更に技術を要するのである)詳しい人に教えを乞う、等の地道な情報収集が主であったが、今はそう言う事でもない。これは確かに便利で良い傾向ではある。だが、消費者としての買う楽しみの一つは確実に減ったのではないか?
 しかし昔は何でもかんでもがおいそれとは金で買える訳ではなかったと言う事を認識しておいて欲しい。身分相応と言う言葉も活きていたのである。
 
 

>>すこし耕三寺耕三師が見えてくる。
 謎に包まれたまま、足は千仏堂に向かう。ここで入り口の人に話を聞くと耕三師は自分が思っていたよりも僅かに古い人と言う事が解った。彼は明治時代の人で戦前すでに実業界で成功を収めていて、彼の所有する会社は戦前軍需工場に指定されていたらしい。
 又、寺は戦前から着手したらしい。実業界での成功の後得度出家して寺の造営に着手。宗派は浄土真宗と言う事。いや、しかし浄土真宗と言う印象が全くない。親鸞や蓮如に関しての一言もない感じどころか浄土真宗とハッキリ示す様な物は何も無かった様に思う。もっと言うと釈迦も阿弥陀も寺と言うメディアを通しては浮かび上がって来ない。それよりもここの寺の開山初代耕三寺耕三(とその母)に関しては可成り饒舌であり、あたかも彼が一宗派の開祖の印象すらある。しかしそれが悪い事でもなんでも無いであろうし、そんな事を批判するつもりも無い。そもそも私個人は人間の営む団体としての「宗教」には懐疑的立場を取るからである。しかし、ハッキリとさせたいのは個人の体験としての、一人生に於ける実践としての「宗教」には関心と敬意を払いたい。
 それで少し耕三師の事が解った様な気がして次に進んだ。この千仏堂は戦後建築である。だが、ここにもとてつも無い金額が投資されてるのが解る。雰囲気からしたらこれこそ高度経済成長の頃ではないかと思えたが後で調べると果たしてそうであった。そしてこの洞窟を抜けると未来心の丘と言う所に向かう様に成っている。
 未来心の丘はこの蘭若でも最も新しい建造物に属する様だ。一面がイタリアから運ばれて来た大理石であり、その頂上も現代美術作家の杭谷一東(くえたにいっとう)氏に寄るこれ又壮大な作品である。ここだけあたかも地中海である。真夏の本当に日差しが眩しい日には目がくらむであろう白亜の世界である。そして頂上から周囲を一望出来、ここからの眺めも素晴しい。眼下に白亜、蘭若、そして瀬戸内の海や島々…。

           未来心の丘からの眺め。

この項、続く。

2 件のコメント:

  1. 瀬戸内海の某島に、度肝を抜く中国骨董蒐集をお持ちの方がおられます。ふとその方のことが頭を過りましたが、それらがどのような形でお披露目されるのかは、来年の瀬戸内国際芸術祭2010で少しわかるのかしら。MIHO MUSEUMのようなものが瀬戸内海にもできるのかしら。
    水軍の話を書こうかと思いましたが、又の機会に。

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  2. BianZi
    今迄ミクシーの貴女の日記で、瀬戸内や南端の島々の
    事を読んで来ましたが、貴女の島に対する思いが
    少し解った様な気がしました。
    水軍の話また教えて下さい。

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